【Blog】初めまして、デコの宮井友紀子です

1. はじめに
2. 宮井家の長女として誕生
3. 動物に囲まれて、祖父母と暮らした幼少期
4. デコが誕生するまで
5. 作家を目指し、アメリカハワイの地へ
6. 日本でのデコライフがはじまる
7. 世界で認められたデコ
8. 感謝と希望

 

1, はじめに

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こんにちは、宮井友紀子です。

この度DECO Clay Craft Academy(以下デコ)を応援してくださっている皆さまをはじめ、デコを知らない方へ向けて、Blog-ブログを始めることにいたしました。

自己紹介、そして今までの歩みを振り返って、ここに至るまでの簡単な私の紹介をしていけたらと思います。

今回、このような機会を持って過去の事も振り返ることで、小さな頃の環境、子供の時に感じた幸せな思いや、ストレスに感じてたことの経験は、私たちの中でずっと残っているんだな・・・ということ、そしてそれを温かく受け止めることで、心の奥に残っていた感情を見つけて解放することは、とっても大切なことだなと改めて気づきました。ではどうぞご覧ください。

 

2. 宮井家の長女として誕生
 
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ご存知の方もいらっしゃると思いますが私の母は、DECO Clay Craft Academy主宰の宮井和子。とても自由奔放でチャキチャキの江戸っ子ノリと明るさを持った東京育ちです。そして、和歌山県出身のどちらかと言うと口数が少ないクールな父。私は宮井家の長女として誕生しました。

祖父が経営をする東京都・木場の材木屋の次女の母と、知り合いを通じてその材木屋に和歌山から上京して就職した父。その後二人は出会い、父が25歳、母が21歳の時に結婚、兄がその後すぐに生まれ、私は母が24歳の時に千葉県船橋市で生まれました。

両親は結婚後、東京の木場から千葉県八千代市の新興住宅地の建売の一軒家を購入し、のちに数年後、父はその家を材木屋の職人に依頼して、父が設計する2階建ての木造の家に建て替えました。

家の隅々まで父の思いが込められて設計された家の中には私が「ハイジに出てくるヨーロッパの窓に憧れている」ことを知った父が、オーバルの木の窓をわざわざ家の中に設置してくれた場所もありました。黙ってることが多い父でしたが、いつも私を見守ってくれるとても優しい父でした。今でも家が完成した時の胸が舞い上がった高揚感を覚えています。

 

3, 動物に囲まれて、祖父母と暮らした幼少期
 
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自宅には犬、うさぎ、鶏、インコ、ハムスターから昆虫。数えたらキリがないくらい、・・・兄と共に飼育をするということを小さな頃から覚えました。小さな庭でしたが、常に季節の花が咲き、両親は畑で野菜を育てたりすることもありました。

私が13歳の中学の時に、長男である父のもとへ祖父母が和歌山から移り同居が始まりました。共働きの両親のもと、ずっと鍵っ子でしたので、家に戻ると祖父母がいてくれることがとても嬉しかったのを覚えています。その祖父母はのちに畑を広げ、家での野菜は二人が栽培したものがほとんどで、兄と私はその栄養満点の手作り野菜で育ちました。今でもそんな温かい環境を作ってくれた優しい祖父母のことは、心に大きく残っています。

母は私たちの手が離れた頃から、手に職をと“アートフラワー、アメリカンフラワー、籐のカゴづくり、あけびのかご、フラワーアレンジメント”に没頭し、いつの間にか家の中には母の作る作品が次々と置かれ、家にいる母は常に手作業をしていた印象が強く残っています。その他にも家の中には、母が集めた雑貨の小物、人形、器などのコレクションが至る所に飾ってありました。

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そのような環境下、私も小さい頃からそれらを手に取り遊んだり、眺めたりと常に私の手に届くところには母の作品の数々が溢れていました。その影響を強く受けたようで、今の私の家自宅にも、同じように私が集めたコレクションが集まっています。

 

4, デコが誕生するまで
 
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のちに私が小学生の頃に、母は粘土と出会い、独自の粘土制作から活動を広げ、徐々に近所の方々が家に集まってお教室が始まりました。そこから少しずつ形が広がり続け、公民館でのお教室から文化教室、カルチャーでのお教室を展開して、毎日のように外へ教えに行く日が続きました。

間もなくして、スタジオ兼お教室スペースを東京に借り、瞬く間にDECO Clay Craft Academyを設立。と同時に更に広いスペースを求め場所を移動して、遂には母の実家の近所に場所を構えることに。

 

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母の活動は休むことなく広がり続け、母の情熱はデコへ注がれ、兄と私も自然と自立することを覚えました。

この頃は昭和の経済成長から安定経済成長に入り、両親ともに仕事が順調に進み、千葉の家から木場まで毎日通いながら、母は家事と仕事を両立し決して手を抜きませんでした。日が暮れて仕事から戻ってきてから家族全員の夕ご飯の支度を始め、祖父母の面倒まで、全てにおいて一切気を抜くことなく行っていました。

制作も夜まで続くこともあり、週末、休日も作業に追われていました。今思うと、どれだけの努力と労力を得て、デコへの発展のために時間を費やしたのだろう・・・時には体も壊して、自分を犠牲にしていたこともあったのを覚えています。

そんな母は愚痴は言わずに、大好きな粘土の制作、デコの活動と家庭の両立を上手に保っていました。日々私は母の傍で、そんな姿を目にし、時には寂しく思うこともありましたが、母のことが大好きで私にとっては1番の影響をもたらす存在だったと思います。

 

5, 作家を目指し、アメリカハワイの地へ
 
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その頃の私はというと、小さな頃はとてもおとなしく、勉強に全く興味を持たない子供でした。算数よりは体育とアート(笑)。勉強も進学も興味が湧かなく、高校は私立の女子校へ進学し、その頃から自発的に行動する力も人以上に芽生え、高校の途中から家を出て自立をしたいと思う気持ちが強くなったのを覚えています。

手に職をつけるという母の影響をかなり受け、作家になりたいと思う気持ちが芽生えたのが高校の終わりの頃。兄がアメリカに留学したのをきっかけに、私も海外へ行きたいという思いが強くなったのもその次期だったと思います。

英語もろくに話せなかったのですが、高校を卒業すると共に作家への憧れから、赤坂にある彫金の学校へ1年近く通い、その学長の紹介もあり、19歳でハワイへ行くことへのきっかけになりました。両親に何度も交渉とお願いをし続け、一人で留学させてもらうことに。

ハワイへ渡った私は、まずは英語の勉強から始まり、ハワイというアメリカンカルチャーとの出会いが始まりました。

ESLの語学スクールから始まり、のちにはビジネスカレッジへ通いました。そしてその間、アートにまつわるクラスをハワイ大学で専攻したり、彫金のスクールも通い続けました。途中、兄のいるカリフォルニアのサンタバーバラへも8ヶ月ほど住み、UCSBのキャンパスへ通う機会も得て、そんな素晴らしい経験ができたのも両親のサポートのお陰です。

私の好奇心旺盛な性格と、たまにはとる突拍子もない行動で、両親にはどれだけ心配させたか分かりません。

それでも私の意思を尊重して、サポートを続けてくれた両親には心から感謝しています。その後、ビジネスカレッジを卒業し、ハワイの経理関係の仕事先へ就職することが決まりました。短期間のビザを出してもらい、少しでも生計を立てることができればと・・・自分のやりたいこととはかけ離れていたのですが、何かできることと思い仕事につきました。

その頃から、将来の事も真剣に考え始め、作家としての夢を心のどこかに持ち続け、ハワイ大学のキャンパスで陶芸を始める機会を得ました。本格的に陶芸の創作活動を行いたいと思ったのもこの頃です。

 

6, 日本でのデコライフがはじまる
 

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その後仕事とビザの関係もあり、24歳の時に日本へ帰国することに。一般企業での就職も考えましたが、日本の陶芸もどうしても学びたく、創作活動を続けたかったので、その時間も取れる会社で働ければと、母にデコで働かせてもらうことをお願いしました。思い返せば当時の私は、全く自分がデコを本格的に手伝うとは思ってもみなかったです。

最初のデコでの仕事は事務的なことを全面的にサポートしました。当時は、全て手書きの手紙をコピーして講師の皆さんへ配布し、会員様の管理も手書きのファイルで管理していました。
ですがまだPC環境も揃っていない時代でしたので、ワードプロセッサーを使い、手紙作成、ラベル作りを始め、会員様の管理をすることを提案しました。

レッスンの作品も自然と手伝うようになり、夜と週末は陶芸の学校に通い、自分自身の作品を作ることも始めました。また展示会に参加したりと陶芸の友達との交流を増やしていったのもその頃です。

そんな時に粘土会社が新しい軽量粘土を開発し、デコに営業として粘土を持ってきました。あまりにも今まで扱っていた石粉粘土とはかけ離れた新しい粘土でしたので、一番最初に手にとった瞬間、その色の明るさ軽さと、私の中で新しいイメージと創作意欲が一気にワーッと広がったのを覚えています。そしてその瞬間、この粘土を使って自分の作品を作りたいと強く心に思ったのを今でもはっきりと覚えています。それこそが、デコの制作活動を本格的に始めたきっかけになっています。

有難いことに母のお教室活動も広がり続け、起動にも乗り、展示会を全国で行ったり、台湾、香港の教室へ出向くことも増え、デコの中でも私のできることも少しずつ増えてきました。新しい活動、新しい風がデコの中で広がり始めました。

そうしている中、従姉妹の華子、桂子、朋子がデコに就職することになり、デコの中で材料部門が立ち上がり、オリジナルの粘土が開発されて、カリキュラムにまつわる材料の販売が始まりました。

 

7, 世界で認められたデコ
 
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私はそんな中、自分のクレイの制作活動も共なり、このオリジナルで素晴らしい粘土を海外で紹介できたらと、意欲的にハワイのクラフトや手芸をサポートしている組織に問い合わせたり、資材を扱っている店に連絡したりと、何かできるきっかけを探し始めました。当時、アメリカでは自然乾燥する、軽量粘土という素材はまだ出回ってなく、その結果新しい素材の粘土として紹介することができました。

それが少しずつ形になり、母は“TEMARI Hawaii”というハワイの組織に海外アーティストとして招待されて、ワークショップを開催することになりました。母の出版された本が紹介されて、地元の方々が大勢集まったことを覚えています。
私はそれを機にハワイへ頻繁に戻り、陶芸の資材を扱う店でデコの粘土を取り扱ってもらい、クラスを頻繁に行うことができることになりました。地元のクラフトフェアに参加したり、それを1〜 2年間頻繁に繰り返し行い、ハワイでのスタジオを2001年にオープンし、会社を立ち上げることを決めたのです。

昨年、ハワイでDECO Clay Craft Academyを立ち上げてから20年の月日を迎えました。振り返るとあっという間の月日なのですが、・・・ワークショップを始めることから、デコの素晴らしいオリジナル粘土をハワイのクラフト店で販売いただき、続けてカリフォルニア州のクラフト店での粘土の販売、各地でのワークショップ、ハワイのメーシーズでの展示会、作品販売。

遂には、ニューヨークで「マーサスチュワートリビング」のテレビ番組へ出演できたこと。そのきっかけが次へとつながり、マーサスチュワートクラフトのブランドとしてデコの粘土がマーサのパッケージになって、アメリカのクラフト店で販売することまでに。そしてハワイの出版社より、本を出版することも出来ました。

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8, 感謝と希望

この20年間の間に、素晴らしい方々との出会い、ハワイに住むことができ、ハワイの温かい人たちに恵まれ、心から感謝しております。

 

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ハワイ支部でも多くの生徒さんが増え、スタッフにも恵まれたからこそここまで続けることが出来ました。ハワイ支部の始まりが、海外の他の国へとデコを大きく紹介することへとつながり、今では世界にデコの認定講師が広がり続けています。
 

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私は母から大きな影響を受け、多くのことを学びました。これからも日本のスタッフ、ハワイのチームと共に一丸となって、母の作り上げたデコの魅力を伝えることに邁進して参ります。

 

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